Saki Sakurai

与えることと受け取ること

2021.11.24

ある日、都内で人と待ち合わせるのに、井の頭線で行こうと思っていたのですが、たまたま夫が出かけるというので車に乗って、降ろしてもらったのは中央線の駅でした。

少し遠回りだけど、時間があるからのんびりいこう、と思って新宿で乗り換えのために降りると、白杖をついた初老の男性がゆっくり、ゆっくり足元の点字ブロックをつたって、エスカレーターを上がるところでした。いつもそういうことをするわけではないのに、そのときは声をかけるようにホーリースピリットに促されたような気がして、でも人混みのなかでわたしは後ろの列に並んでいて、遠く離れていたので声はかけませんでした。

しかし、エスカレーターを上がり、改札階のさらなる人混みの中でその男性が視界に入ってきたとき、今度は声をかけてみようと思いました。

「あの、どこかまでご一緒しましょうか?」
「小田急線に乗りたいんです。祖師ヶ谷大蔵まで。」

そうして、その方が左手を伸ばすのと、わたしが右腕を差し出すのはほとんど同時でした。
それからわたしたちは、ゆっくりゆっくり、人混みをぬって、小田急線乗り換えの改札を通り、各停電車の地下のホームまでエレベーターで下り、停車していた電車に乗るところまで行きました。

わたしたちの交わした会話は、そんなに多くありませんでした。「時計の2時の方向に進みますよ」とか、「改札にきましたけどSuicaか切符を出せますか」とか、「エレベーターに乗りますよ」とか。その方は静かに、「はい」と言うのみでした。
でも、わたしたちの中に最初から最後まであった会話、コミュニケーションがありました。

《わたしはあなたです》

右腕に感じる、その方の手のあたたかさが、そう教えてくれました。

その方にお別れして、わたしは胸がいっぱいになり、階段をトボトボ上がりながらほとんど泣きそうになっていました。
わたしたちは、相手に何かを与えることはできなくて、自分に与えることしかできないのだ、と知りました。心の中に増えたこの宝物をずっと感じていたいと思いました。