外側を見ない(続)
内側を見ることは最初のうちは簡単ではないですよね、と書きましたが、わたしに初めてそのことを教えてくれたのは、24歳のときに出会ったたヨガの先生でした。
当時、自律神経系失調症のような状態になり、体調がとても悪かったのでヨガでも始めてみようかなと思って、比較的自宅から近いヨガ教室を探して出会ったのがその先生でした。
自宅の1階スペースに生徒さんは多くても4人のこじんまりとした教室でしたが、自律神経失調症を治したいという思いも忘れてわたしを夢中にさせたのは、ヨガのポーズよりも、終わった後に先生がしてくれるヨガの経典や真理についての話でした。気づけば毎週通っていました。
先生にたくさん質問をして、相談をしました。わたしにはこんな問題があって、あんなこともあって、自分の家族はこんなで、わたしはこんな傷を抱えていて、ととにかくたくさん先生に自分のことを話しました。そう、自分だけの、唯一無二の、傷だらけの不平不満の物語を。でも、先生はただの一度も共感はせずに、いつも決まって自分の心を見るように促すのでした。
厳しい先生だなと思ったけど、それでも通うのをやめなかったのは、「自分の心以外に変えるべき場所はない。それは朗報だ」と喜んでいる部分がどこかにあったからかもしれません。
もっともっと知りたくて、わたしは先生の本棚にある本を借りて、読み漁りました。それでは飽き足らずに、先生の学び舎の講義にも参加して(そこはヨガの先生になりたい人が来る場所だったけれど)、タイからお坊さんが来れば講演会なども聞きに行って、さらには1週間近く屏風のなかでひたすら自己を省みる「内観」とやらにも参加して、とにかく真実を知りたいという自分の願いをはっきりと自覚したのはこのあたりからでした。
それ以降、様々なスピリチュアルのティーチャーの本を読んだり、講義を聞いたりしてきましたし、そのどれも大切な学びでしたが、わたしのジャーニーの原点は、やはりこのヨガの先生です。わたしの話に共感してくれる先生でなくてよかったと思います。適当に相槌を打って、優しい言葉で丸める先生でなくてよかった、本当の問題の場所(=わたしの心の中)を照らして、示してくれる先生でよかった。心からそう思います。
奇跡のコースもそんな存在かもしれません。初めのうちは、厳しく感じられるかもしれません。わたしたちが、この本に書かれてあることを、優しさと共に受け取れるようになるまでには、時間がかかるかもしれません。
でも、学びの先に、きっとこの本に感謝することになりますし、それは実際単なる本ではないと、わかるときが来ます。