Saki Sakurai

神への恐れ

2021.11.15

神を恐れる、と聞いてピンとくる人は少ないかもしれません。

わたしたち日本人のように宗教意識が希薄な場合、特にそうかもしれませんが、奇跡のコースはそれに気づいていくプロセスであるとも言えますので、今日はそのことについて書いてみます。

ゆるしの実践が進み、外で起きていることや、それにまつわる感情、それを生み出す何層もの信念を超えて、心の奥の奥に分け入っていったとき、ある一つの壁にぶつかって、行き止まりのように感じることがあります。

自分は何かに傷つけられる存在ではなく、選択する力を持った「決断の主体である」というところまで見えて、あとは自我との同一化でなくホーリースピリットを選びたいという選択をするところまできたのにどうしても、それができない。

でももっと正直に見るならば、できないのでなく、したくないのです。

手放したくないのです。

自我と同一化した(=神から分離してしまったと信じた)から、その結果罪悪感が生まれ、その罪悪感がわたしの見えている世界の魑魅魍魎を生み出しているとわかった。

だから、それをやめればいいとはわかっているのだけれど、どうしてもできない。自分を罰することをやめたくない。癒されたくない。問題がなくなってしまうと、自分もなくなってしまうようで怖い。苦しいけれど、このままでいる方がよっぽどいい。

そして、これが、神への恐れ(抵抗)です。

わたしたちは表層意識では神との関係を意識しながら生活を送っていませんが、深いところでは全てが神との関係です。

本当は、わたしたちが何をおいても、一緒にいて欲しいのは神です。ですが、わたしたちは神でなく、他のものを求めています。

なぜか?

神から分離してしまったと信じて、自我についていったわたしたちは、神はわたしを許すはずはない、わたしを罰するに違いない、と決め込みました。もう、神に頼れない。頼らない。ならばこの世界で自分の王国を築こう、と。

本当は自分の中の空虚さを満たせるのは神だけなのですが、特別な誰かや、お酒や、食べ物や、仕事や、ショッピングや、ありとあらゆるこの世界のことで埋めようとしているのがわたしたちです。

ゆるしの実践で、無意識にある罪悪感を少しずつ溶かしていくこととは、神と和解する作業です。和解といっても、神はわたしたちを一度も追い出したりはしていませんので厳密にいうならば、自分の勘違いを解いていく作業です。そしてそれは、神の愛を少しずつ少しずつ受け入れていく練習です。

それにどれだけ時間のかかることか。。

でも、「今はまだできない」と思っている自分を咎めないことです。とっととしなさいよ!と命令せずに、ただ、それを慈しみの目で見守ることです。慈しみの目とは、ホーリースピリットと共に見ている目です。

その慈しみの目だけが、闘わずに、変えようとせずに、裁かずに、罪悪感を溶かしていくことができるのです。