わかんないけどやってみるか、くらいでちょうどいい
弓道というものにずっと憧れを抱いていたわけではないですが、やったら向いてるんじゃなかろうかと根拠のない自信がありました。(誰しも、1つや2つそういうものがありますよね。)
いつかやってみたいなぁと漠然と思っていたら、コロナの予防接種を受けに行った自治体の施設の敷地内に弓道場があることを知り、年に2回初心者を募って初心者講習をしてくれることを知りました。大変人気の講習らしく、応募多数の場合は抽選だそうですが、わたしはなんの疑いもなく当選すると思っていました。
当選したらいいな〜とかでなく、もう自分がやることになっているのを知っているという感覚でした。(これも、誰しも、そういう経験ってあるのではないでしょうか。)
秋の募集の時期がきて、倍率4倍のなか予定通り当選したわけですが、コース学習者のある先輩に「聞いてください、わたし弓道始めることなったんです。わたし、弓道って何か(自分がやる意味が)ある気がするんですよ」というようなことを言ったら、こう返ってきました。
「意味があるとか考えないほうが、学べるもんだよ。わたしたちは意味つけたがるけど。少し面倒だけど行ってみるか、くらいのときのほうが、じつはぐんぐん吸収できたりするんだよ」
そのときわたしは、すぐにその言葉をありがたいと思うまでには至らなかったけれど、振り返ってみて、ヒーリングの学びも、把握しようとか、上手になろうとか、掴もうとか、意味をわかってるとか、そういう自分がしっかり居座ってるときじつは何も学べなかったりするなと思います。自分はこれをやることになってる使命だ、なんて考えるのは最悪です。どんどん何も見えなくなります。
「わかんないけど、(べつにしなくてもいいんだけど)なぜかここにいて、これやってる(ことになってるらしい)」ってくらいのとき、じつは思いがけず進んでいたりします。しかも、そっちのほうが最大限にその場に貢献していたりします。
いい絵を描こうとする人の絵は、見ていて疲れる、と聞いたことがあるけど、それも同じかな。(笑)
軽やかにいきたいです。やってもやらなくてもいい軽やかさのなかで、やりたいとかやりたくないとか言う自分も居なくなって、やってる意味や動機なんて不要で、そうして目の前のことを最大限に受け取れる心でいたいです。